倉敷道院のみんなと保護者の皆様へ naka-pom徒然第3弾+倉敷道院保護者会通信第2弾 10年以上気にしていること

倉敷道院の中島です。

 

本日は本業の方手が薄いということで休みにしていただいてます。

 

自分の場合今どき拳士として昇段ペースかなり早いので、指導者歴もイコール社会人歴に近いです。

 

指導も常識から外れるとお叱りが多かったので、最初の内は道院長に伺い立ててばかりでしたが自分で内容考える訓練を新潟で重ねさせてもらいました。

新潟赤道にて指導する中で気になり始めたのは、色々と偉そうに指導しながら果たして教え子から見た自分の背中はどう映っているのか?という点です。

 

正直言って、今も分かりやすいカッコ良さとかは無いと思ってます。

どうしたら教え子に対して恥ずかしくないようにできるかって、永遠のテーマです。

 

確信持ってるのは、変にカッコつけたり教え子の個性を否定したりって確実にダメな大人認定喰らうよなと。

 

あと、今自分で絶対言わないようにしているのは「こんな自分でも」って言葉です。

 

皆さんに聞きたいのは付いていきたいのは「こんな自分でもこれだけできるよ」と言う指導者か、「こんな自分のこんなところを活かしてこれだけのことをやった」と言う指導者かという点です。

 

自分の中だと「こんな自分でも」って、明らかに自分の個性=持っている財産を殺してる奴の言葉にしか見えなくなってます。

 

人生切り開く=使えるものは全部投入でないと不可能ですから、自分の個性の否定=使えるものを出さずに腐らせる行為でしかないです。

 

ましてや自己確立が宗旨の金剛禅/少林寺拳法の指導者として「こんな自分でも」こそ教え子を腐らせる絶対に言ってはならない言葉に思います。

 

一般常識ではダメ扱いの個性って、ただ可能性を根拠の無い言葉で縛られているにすぎません。

 

例えば自分の場合、反射神経鈍い/運動得意じゃない/持久力無い/ペース握られたら終わるという一見するとなぜこんなのをレジェンドの先生が名指し?という常識だと疑問符が付く資質を持っています。

 

でもね、だからこそ必死に読み替えました。

自分が色々鈍いとですね、正対してる相手はちょっとした仕草に気が付きません。

あと、自分が目線向けてる方を相手も注意向けてくれます。

持久力については無い方が戦術・マネジメントの工夫のし甲斐がありました。

少林寺拳法の教科書には守主攻従→防御こそがメインと説かれていますが、主導権を手放せなんてことは一言も書かれていません。むしろ、主導権のメカニズムすら書かれているのでそこはバレないように握るしかありません。

 

ということで、自分の個性を正確に認識して気づいたら殴り合いで殴り返す必要すら感じなくなってしまいました(つまり、殴り返すことも相手を傷つけることもなく制圧)。

 

脱線しすぎな気もしてきましたが、これもまた変に飾らない一環ではありますw

 

どっちかというと、自分にとって怖いのは偉い人たちに干されることより下の立場の人たちに見放されることです。

 

今、下の立場にいる人の方が縁も長く続くし、目上からはぶっちゃけ逃げればよいですが、目下の人たちから逃げたら一生逃げれない、全部失うレベルに見えています。

 

これもまた自他共楽の一端であります。