言ってることとやってること

己こそ 己の寄るべ 己をおきて 誰に寄るべぞ よく整えし己こそ まこと得がたき寄るべなり

 

自ら悪をなさば 自ら汚れ 自ら悪をなさざれば 自らが浄し

 

浄きも浄からざるも自らのことなり 他の者に依りて 浄むることを得ず

(聖句)

 

一、我等 此の方を修むるにあたり 祖を滅せず 師を欺かず 長上を敬い 後輩を侮らず 同志互いに親しみ合い援け合い 協力して道のために尽くすことを誓う

 

一、我等 一切の既往を清算し 初生の赤子として 真純単一に 此の方修行に専念す

 

一、此の法は 済世利人のために修行し 決して自己の名利のためになすことなし

誓願

 

謹みて 天地久遠の大みちから(大御力) ダーマを礼拝し奉る

 

我等 無始よりこのかた 煩悩にまつわれて作りたる 諸々の罪とがを 悉く懺悔し奉る

 

我等 この身今生より未来に至るまで 深く三宝に帰依し み教えに従い奉る

 

願わくは よき導きと 加護をたれさせ給え 南無ダーマ

(礼拝詞)

 

道は 天より生じ 人の共に由る所とするものなり

 

その道を得れば 以て進むべく 以て守るべく その道を失すれば即ち迷離す

 

故に道は 須ュも離るべからずという所以なり

 

人生まれて世にある時 人道を尽くすを尊ぶ

 

まさに人道において 恥ずるところなくんば天地の間に立つべし

 

若し人あり 仁・義・忠・孝・礼のことを尽くさざれば 身世にありと雖も心は既に死せるなり 生を偸む者というべし

 

およそ人心は 即ち神なり仏なり 神仏即ち霊なり

 

心に恥ずるところなくば 神仏にも恥ずるところなし

 

故に一動一静 総て神仏の監察するところ 報応昭々として 豪厘も赦さざるなり

 

故に天地を敬い 神仏に礼し 祖先を奉じ 双親に孝に 国法を守り 師を重んじ 兄弟を愛し 朋友を信じ 宗族相睦み 郷党相結び 夫婦相和し 人の難を救い 窮を援け 教えをたれて人を導き 心を至して道に向かい 過を改めて自ら新たにし 悪念を断ちて 一切の善事を信心に奉行すれば 神仏既に早く知りて 福を加え 寿を増し 子孫を益し 病減り 過患侵さず ダーマの加護を得られるべし

(道訓)

 

一、我等は 魂をダーマより受け 身体を父母より受けたることを感謝し 報恩の誠を尽くさんことを期す

 

一、我等は 愛民愛郷の精神に則り世界の平和と福祉に貢献せんことを期す

(旧:我等は 日本人として祖国日本を愛し 日本民族の福祉を改善せんことを期す)

 

一、我等は 正義を愛し 人道を重んじ 礼儀を正し 平和を守る 真の勇者たることを期す

 

一、我等は 法を修め 心身を錬磨し 同志相親しみ 相援け 協力一致して理想境建設に邁進す

(信条)

 

何だか前置きがメチャンコ長いのですが、金剛禅・少林寺拳法の中で定期的にみんなで声に出していることです(鎮魂行や各儀式)。

 

少林寺拳法自体が太平洋戦争の後に発足しているのでこれらの文言も口語ありきの昭和時代に作られてますが、表現が戦前~明治っぽくて古めかしくはあります。

(信条は自分が小学生の時に改定があり、入門してしばらくは旧バージョンでやってました)

今から見るとずいぶん昔の人が考えた文言ですし、自分の流派(?)のことではありますが深いっすね。

 

言ってることとやってること

指導層でない人たちにとって誰かに言われた通りの練習メニューこなして、みんなが素晴らしいと言うからとの同調圧力みたいなのでやってるスタイルの演武にいそしんで、試験官の示した基準さえクリアすれば昇格できる現状。

武専とかに通っている人が偉い先生に教わった技術を金科玉条のごとく振り回して下の立場にマウント取る現状。

 

正直言ってることとやってることが矛盾してませんか?

 

己こそ己の寄るべと言いながら修行は全部上の価値観に依存しろって、矛盾そのものであり、そんなものが衰退するのも当たり前にしか思えません。

 

悪いことをはっきり悪いと言う。悪い連鎖なんてぶっ壊してみんなで一緒に自律を研究する。自分にとってはそれが金剛禅、それが少林寺拳法な気がしてならないのです。

 

今の倉敷道院の規模だとお猪口の中で嵐を起こしてるに過ぎないからこそ世の中への影響は皆無に近い。

 

でもね、お猪口の中で嵐すら起こせないなら何も変えられない。

 

問題児の論理なのは重々承知、今の構想自体も常識からしたら滅茶苦茶の自覚あるけど、白帯だろうが全員がバラバラの自我と意志を持った武術道場、作ってみたいのです。

 

先生として教え子の希望を述べるなら、従順で何でも言うこと聞いてくれる子は望まないし、自分のデッドコピーができると想像しただけで反吐が出ます。

 

こちらを全否定するような子は早く自分から離れるでしょうから、そこのところは自分に対して是々非々で、我を通して失敗するときだって全力な感じがいいです。

 

指導者と教え子の個性って全然違うのが普通ですから、ちゃんと教えると起こるのは、指導者の知識と教え子の個性を素材に何ができるかお楽しみな化学反応です。

 

正直そんなの結果が読めないから面白いです。そんなイレギュラーな新しい教え子の知見、それで指導者たる自分がボコられてしまうのも一興ですし、その対応を研究するのもまた自分が強くなる一環です。

 

上の立場にいてお山の大将で居続けたら劣化しない方が不思議です。

あと、そういう強い相手を外から連れてくるのも大変です。

武術の世界で自分が強くなる上で一番手早いのは周りの人の中でガンガン化学反応を誘発して、結果はお楽しみなイレギュラーで身の回り固めた方が自分としてはよさそうです。

倉敷道院のみんなと保護者の皆様へ~naka-pom徒然第5弾+保護者会便り第3弾 道場の練習/少林寺拳法の練習体系と学校の勉強

いきなりですが、少林寺拳法の練習体系は大きく

法形(普段の基本練習+技の練習)

演武(大会関係など)

運用法(乱捕/自由組手)

という感じです。

正直なところ、従来通りのやり方だと全部がバラバラで普段の練習が演武・運用法につながらないということで演武も運用法も面白くない、普段の練習も意義が分からないという事態が多いように思います。

 

だからこそ今、真剣に全部がリンクしてみんなが少林寺拳法をフルに楽しめる体制を作るべく試行錯誤しています。

 

そのために、構想の一部は練習時に説明しましたが改めて全容を説明して魚拓にしておく必要があります。

 

話は飛びますが、プロ野球とかの「打撃投手」「バッティングピッチャー」って聞いたことないでしょうか。

 

カープのキャンプ中継でチラ見するレベルですが、野球のバッターが試合で沢山ヒット打つのには体系立った練習が必要です。

 

ピンの上に乗ったボールを打つ、コーチにトスを上げてもらう、ピッチングマシンを相手に打つといったのも大切ですが、最後は人にボールを投げてもらってってしないとみんな打率が大惨事のはずです。

 

自分の得意なパターンを探すのもプロの打撃投手と相談しながら投げてもらうのが早いし、次の試合の敵先発投手対策だって人に投げてもらわないと成り立たないです。

 

練習で打てないバッターが果たして試合で活躍できますか?

 

選手とスタッフが協力して練習で打てる状態作り込むから試合で打てます。

 

道場の練習も一緒です。

 

普段の法形練習がダメなのに演武も運用法も上手くいくはずがなく、それが非常事態に役に立たないのも当然です。

 

だから、中島先生の場合だと受け反撃する側(守者)よりも攻撃する側にうるさいと思います。

 

何も考えていない攻撃はやるだけ無駄で、守者の人の時間と気力と機会を泥棒する行為です。

これも毒を込めますが、でたらめな攻撃に対して正しい技を返す必要ってあるのでしょうか?

変に意地悪しようとする攻撃って、その技しか見てなくて致命的なところが必ずお留守になるので、技をせずに隙を突き返すのが余程練習になります。

 

また、少林寺拳法の技はとても種類が多く、同じような攻撃に沢山の技があるのは、その受け方に適した攻撃のタイミングやスピードなどが大きく違うからです。

 

例えば単純な上段突に限っても強い当たりか速い当たりかという突き分けの余地が大きかったりするし、投げ技や逆技も守者にケチをつける前につかんで殴りに行くことや変化技のことを十分意識しないと守者の動きが成立しえないです。

 

攻撃の決まっている法形練習って、それこそ守者からすると打撃投手相手にボールを打つ練習です。

きめ細かい対処を覚えて得意パターンを見つけて組み合わせて、その次の段階に演武(カッコつけて見せる)や運用法(練習したことを自由に組み合わせ)が来ます。

 

で、長くなったけど学校の勉強についての提案にここからつなげます。

で、さっきの記事もつながります。

 

社会人歴14年なのに今一番数学の勉強に自信があるのは仕事・趣味・日常生活など必要なことに積極運用してきたからです。

 

例えば、学校はみんな夏休みに入りました。

宿題、沢山ありますよね。

自分も昔そうでしたがやらなきゃいけないって頭がいっぱいになって逆に手が付かず夏休みが終わってしまうってよくある話です。

 

でもね、やっぱり人間の頭が一定時間に処理できる情報って限りがあるし消耗したものは回復しないと動きません。

 

始業式までに宿題は終わらせるべきではありますよね。

へばってるときや他に何か気になっているときに宿題気にしてると余計疲れるし宿題にも手を付けられないと断言します。

 

親御さんの顰蹙覚悟ですが、手が付かない時は全力で食って寝て遊ぶ。

ガッツリ元気になったところで爆発力に任せて宿題を進めてみる。

最初はそんなでよいでしょう。

 

自分の今の元気度合いから食う寝る遊ぶに振るか勉強に振るか、これもまた計算の練習だと思いませんか?

 

強制されるのじゃないけど、2学期入ってからの宿題居残り回避という至上命題のために自発的にこういう問題を設定して解いて行動するってのは、社会人の仕事にも通じます。

 

あと、勉強の復習のヒント。

 

お買い物。

多分、みんな親御さんからもらっているお小遣いは決まっているはずです。

この夏休みに自分でお買い物できる総額って、お小遣い総額までのはずですよね。

ということは、

(お小遣い総額)≧(買い物額の総和)

という不等式ができます。

学校で習う形とは違いますが、買いたいもののお値段調べて足し算してみましょう。

 

場合の数。

キーワードはI'm Lovin’it.

セット注文するとき、

ハンバーガーのレパートリー→サイドメニュー→飲み物

って感じで決めると思います。

組み合わせの数としてはハンバーガーの種類×サイドメニューの種類×飲み物の種類って見ます。

教科書に戻るとハンバーガーとサイドメニューと飲み物にあたるのは何かって考え方をしましょう。

あとはみんなで集まってお菓子配りで遊んでみてもいいかなと。

 

とりあえず身の上で必要性作ってみて問題作って解くと効率良さそうに思います。

倉敷道院のみんなへ~naka-pom徒然第4弾 学校の勉強の答えと仕事の答え

お疲れ様です。

 

本日はブログでは初めて(株)松本鉄工技術営業の立場を絡めます。

matsumototekko.co.jp

 

「営業職」なので客先とどんな仕事をするか、どんな予算でやるかが中核の仕事ですが、小さい会社なので営業部隊は全員仕事をサポートしてもらう協力会社さんとも社内の製作部隊とも日程や予算や人/物のやりくりを調整してます。

 

自分の場合、過去の経験も全部乗せする意味でちょっとした製品は自力設計もします。

 

倉敷道院の中高生のみんな、学校の勉強って、テストも授業も宿題も先生や教材会社が決めた問題に対して先生や教材会社の用意した答えにたどり着く繰り返しになってると思います。

 

学校卒業して就職した後も最初の内は問題も答えも上の人に用意してもらえる場合が多いです。

ただ経験積んでるうちに、それだけだとすぐ行き詰ります。

 

そう言いつつ、説明難しいのは機械設計だと図形+強度計算/方程式と言った高校までの数学の知識、お金の計算や人のやりくりなどは小学校の四則演算や割合、速度の知識など学校で習ったことをほぼそのまま当てはめちゃってたりもします。

 

言えることは、社会人が仕事でこう言った学校で習ったことをフル活用する場合、答えと問題を自分で決めちゃうんですよね。

 

我々メーカーだと数学が多いですしお金扱う人もそこはモロだったり、後はそっち系の人は法令とかについて答えと問題を自分で決めます。

 

あと学校だと問題を見て答えを導くのですが、仕事だと先に答えを決めてそこに対して問題を設定して解いていくようなイメージを自分は持ってます。

 

例えば、我々のお客様だと注文予定の機械を使って

・こんな大きさ/重さの材料(以下ワークと表現)を運びたいorこんな風に手を加えたい

というオーダーをしてきます。

 

これを実現するのが最終的な答えで、

 

・決められた設置場所にどの程度のサイズにしてどうやって据え付けようか

・どの程度のペースで装置を動かすか

 

というのがまず問題です。というか、この問題から

 

・この大きさになるから動作速度はこの程度

 

という答えが出ます。

 

次の問題は

・どの種類の動力(アクチュエーター:モーター/直動シリンダー/アーム型ロボット)を使うか

・どんなサイズが必要か

 

となり、答えを決める。

 

アクチュエーターは専門メーカーのカタログから選ぶので、それに対して今度は

・どの程度の部品や土台を作ればよいか

 

という問題。

これも問題作った時点でワーク/アクチュエーターの重量やスピードが分かっていて、オプションで準備する部品の材料が壊れる限度も何パターンか決まっているのでそこからどんな部品を作るか大きさや組み合わせ方を決めます。

 

単純な設計の考え方はこうなのですが、同じ能力があるものを買うのにお金がかかりすぎたり時間がかかりすぎたりって嫌ですよね。

 

お金や時間が無限に使えるなら壊れず使いやすい完璧な機械が作れて当然ですが、それはあり得ません。

 

だからこそ、ここまでに書いた設計をするのにはそこも考えないといけません。

安くて出来上がり早くて壊れにくくてメンテしやすいというのに絶対の正解もありません。

 

だからこそその答えは自分とお客様で協力して作り出します。

一緒に作った答えに向かって、現状を観察して問題を作り出し解いていく。

こうやってお客様に満足してもらって対価をいただくというのが仕事だったりするかなと思います。

 

長くなったので、naka-pom徒然第5弾に続きます。

そこでは道場の練習/少林寺拳法の練習体系への考え方と学校の勉強への向き合い方を提案したいです。

倉敷道院のみんなと保護者の皆様へ naka-pom徒然第3弾+倉敷道院保護者会通信第2弾 10年以上気にしていること

倉敷道院の中島です。

 

本日は本業の方手が薄いということで休みにしていただいてます。

 

自分の場合今どき拳士として昇段ペースかなり早いので、指導者歴もイコール社会人歴に近いです。

 

指導も常識から外れるとお叱りが多かったので、最初の内は道院長に伺い立ててばかりでしたが自分で内容考える訓練を新潟で重ねさせてもらいました。

新潟赤道にて指導する中で気になり始めたのは、色々と偉そうに指導しながら果たして教え子から見た自分の背中はどう映っているのか?という点です。

 

正直言って、今も分かりやすいカッコ良さとかは無いと思ってます。

どうしたら教え子に対して恥ずかしくないようにできるかって、永遠のテーマです。

 

確信持ってるのは、変にカッコつけたり教え子の個性を否定したりって確実にダメな大人認定喰らうよなと。

 

あと、今自分で絶対言わないようにしているのは「こんな自分でも」って言葉です。

 

皆さんに聞きたいのは付いていきたいのは「こんな自分でもこれだけできるよ」と言う指導者か、「こんな自分のこんなところを活かしてこれだけのことをやった」と言う指導者かという点です。

 

自分の中だと「こんな自分でも」って、明らかに自分の個性=持っている財産を殺してる奴の言葉にしか見えなくなってます。

 

人生切り開く=使えるものは全部投入でないと不可能ですから、自分の個性の否定=使えるものを出さずに腐らせる行為でしかないです。

 

ましてや自己確立が宗旨の金剛禅/少林寺拳法の指導者として「こんな自分でも」こそ教え子を腐らせる絶対に言ってはならない言葉に思います。

 

一般常識ではダメ扱いの個性って、ただ可能性を根拠の無い言葉で縛られているにすぎません。

 

例えば自分の場合、反射神経鈍い/運動得意じゃない/持久力無い/ペース握られたら終わるという一見するとなぜこんなのをレジェンドの先生が名指し?という常識だと疑問符が付く資質を持っています。

 

でもね、だからこそ必死に読み替えました。

自分が色々鈍いとですね、正対してる相手はちょっとした仕草に気が付きません。

あと、自分が目線向けてる方を相手も注意向けてくれます。

持久力については無い方が戦術・マネジメントの工夫のし甲斐がありました。

少林寺拳法の教科書には守主攻従→防御こそがメインと説かれていますが、主導権を手放せなんてことは一言も書かれていません。むしろ、主導権のメカニズムすら書かれているのでそこはバレないように握るしかありません。

 

ということで、自分の個性を正確に認識して気づいたら殴り合いで殴り返す必要すら感じなくなってしまいました(つまり、殴り返すことも相手を傷つけることもなく制圧)。

 

脱線しすぎな気もしてきましたが、これもまた変に飾らない一環ではありますw

 

どっちかというと、自分にとって怖いのは偉い人たちに干されることより下の立場の人たちに見放されることです。

 

今、下の立場にいる人の方が縁も長く続くし、目上からはぶっちゃけ逃げればよいですが、目下の人たちから逃げたら一生逃げれない、全部失うレベルに見えています。

 

これもまた自他共楽の一端であります。

倉敷道院 拳士保護者の皆様へ~保護者会便り第1弾

お疲れ様です。

倉敷道院の中島です。

本ブログの記事、第3弾は子供たちの保護者の方に宛てようと思っていて、悩み過ぎていました。

 

本日は開き直って思いついたまま、お伝えしたい順番に書いてまいります。

まず、自己紹介させてください。

中島幹彰 38歳(1984/1/31生まれ、みずがめ座のO型未婚)

好きな物:少林寺拳法、車、列車、ロボット、機械、音楽鑑賞、カラオケ

 

 

拳歴

1991年5月 福山東道院(瀧本保夫道院長)に入門/小学2年/506期

1996年7月 准拳士初段合格/中学1年

1999年4月 高校入学に伴い金光学園少林寺拳法部に転籍

2000年2月? 少拳士二段合格/高校1年

2000年4月~翌3月 金光学園少林寺拳法部副将

2002年4月 岡山大学入学に伴い同大学少林寺拳法部に入部

2002年11月 中拳士三段合格/大学1年

2004年5月~翌4月 岡山大学少林寺拳法部41代副将/統制

2003年4月 本部武専予科に入学

2004年4月 本部武専予科2年にて白神道院長が担任に

2005年3月 正拳士四段合格

2005年頃より倉敷道院に通い始める

2006年度より倉敷道院で活動開始、初めて審判/考試員資格を得る

2008年3月岡山大学を卒業

2008年4月より就職で新潟県新潟市に引っ越す

2008年6月 新潟赤道道院(大澤一裕道院長)に転籍

最初の退職まで指導・審判・考試員・大会出場など私生活の大きな支えに

2009年12月 僧籍取得/少導師に

2012年5月 五段合格(28歳)

2013年6月 退職に伴い実家(広島県福山市)に戻り、最初は倉敷道院に復帰

2014年~ 福山東道院に復帰、しばらくは倉敷道院との掛け持ちで活動

2016年頃~福山東道院での活動に専念 

2019年3月? 広島武専にて研究科修了

2019年8月 大拳士合格(35歳)

2020年11月 転職に伴い倉敷に引っ越し、倉敷道院に復帰

 

得意メニュー:3人組手、副読本を掘り下げた戦術指導、教え子たちの所作の分析

 

普段の練習の時点で、参与道院長候補と言いながら恐らく日本一遊び色が強いメニューを組んでいます。

かなりの人から不真面目って見られそうに思ってしまうのですが、かなり真剣に教え子の個性を掘り起こすこと、楽しんでもらうこと、本気を引き出すことを狙っています。

 

子供たちにとってその場でパッと見てパフォーマンスに悪い影響がある癖って、違う見方を教えることで即効で良いパフォーマンスの裏付けに化ける要素ばかりだなっていうのが指導しているとよく見えます。

 

本人たちにも伝えましたが、自分から見ると将来大物の道院長になれる子がそろっています。

 

保護者の皆様にはそんな素敵なお子様たちとのご縁を頂いていることに感謝しかありません。